【第7回】人民の権利を確立させた明治維新の功労者 江藤新平
この方は本当に好きな歴史人物の1人です。
皆さん江藤新平を知っているでしょうか?
かくいう私も「佐賀の乱」のリーダーだった
ということはなんとなーく知っていたくらいで、詳しいことは全く知りませんでした。
詳しく知るきっかけになったのは昨年2018年に行った肥前さが幕末維新博覧会
それまで佐賀県のこと詳しく知らなくて、
という認識でした。
また、うわさで「維新博覧会、行ったけどただの佐賀自慢だった」
という話を聞いていたのでそこまで期待していなかったのですが
とても素敵な催し物でした!
佐賀自慢とかいうけど、実際幕末~明治にかけて藩閥政治といって
薩長土肥
(薩摩(鹿児島)・長州(山口)・土佐(高知)・肥前(佐賀))
の4つの藩出身の人が中心となって政治を動かしていました。
力の順番で行くと左から右へという感じなので
4つの藩の中で影響力は小さかったですが、
それでも大隈重信(内閣総理大臣)、大木喬任(文部卿・司法卿)、佐野常民(日本赤十字社創設)など有名な人たちを輩出しています。
その背景に居たのは藩主の鍋島直正なのですがそれはまた別のお話で…。
結構話が脱線してしまいましたが、
そのくらい幕末から明治時代の佐賀は影響力があったので
佐賀自慢をしても全然問題ないでしょというのが私の持論です。
行ってみた幕末維新博覧会のなかでふと目についたのが江藤新平
パネルを見ると日本の司法制度を整備したとありました。
私は法学部出身のため興味を持ちました。
↓こちらのパネルが私のファーストコンタクトでした!
(ちゃっかり写真を撮っていた)
前置きが長くなりましたが、
今回は明政府でもさまざまな功績を残したのにも関わらず、
様々な因果の中、志半ばで亡くなってしまった江藤新平についてご紹介していきます。
プロフィール
生年月日:1834年 3月18日
没年月日:1874年4月13日
- 日本の初代司法卿(現・法務大臣)
- 近代的な司法整備に着手するも志半ばで梟首される。
生い立ち・主な経歴
*1849年 16歳 弘道館内生寮へ寄宿
↓
↓ 帰藩後、永蟄居処分。
*1868年 35歳 江戸鎮台府判事に任ぜられる。
↓
*1869年 36歳 中弁に任ぜられる。12月19日虎ノ門付近で襲われる。
↓
*1871年 38歳 文部大輔、左院副議長に就任。
↓
*1872年 39歳 教部省御用掛兼勤、司法卿に就任。
↓
*1873年 40歳 参議に任ぜられる。明治六年の政変により辞任。
↓
*1874年 41歳 征韓党の首領として佐賀の乱に参加。4月13日梟首。
佐賀偉人伝07『江藤新平』 星原大輔著
江藤新平のエピソード・功績
小さい頃は貧しくて苦労していた
江藤新平の家系はもともとは名門だったそうですが、
時代と共に家運が衰退していき、江藤が生まれるころには
藩内で下から3番目の手明鑓という身分となっていたそうです。
江藤のお父さんは人望は厚いけど仕事に熱心でなく、
江藤が12歳の時には事実上のリストラにあいます。
お父さんの収入がない中、お母さんである浅子さんが寺子屋を切り盛りするなどし、小さい頃はお母さんから教育を受けていたそうです。
通常、佐賀藩士の子どもは早ければ6・7歳で藩の学校である弘道館に入学するのですが、家が貧しいため就学することが出来ず、ひたすら読書に耽っていました。
のちに周囲の配慮によりお父さんが復職し、16歳で弘道館内生寮に寄宿します。
成績優秀だったそうですが着物とかもボロボロだったそうで
頭髪蓬々(とうはつぼうぼう)、塵垢(ちりあか)衣に満つるも平然
として周囲からは変人とみなされていたそうです。
カメラをにらみつけるような肖像画
この記事の一番最初に載せた肖像画ですが、脱藩して京都に行ったときに撮られたようです。
なぜこのような表情かというと、京都で世話になった桂小五郎や伊藤博文に言われるがままに着物を着せられ、言われるがままに写真を撮っている自分に腹が立ったとのことですが…笑
私はこの写真が一番好きなんですけど、そういうお気持ちだったんですね。
引用:www.city.saga.lg.jp/.../s32047_20120521012459.pdf
後進を大切にし、能力を持って登用する
明治政府に仕えていたころ、40人程の書生の面倒を見ていたと言われ、そのために死後借金が残った(wikipedia)
自分が低い身分から起こったので司法卿(現・法務大臣)に栄進しても少しも尊大ぶらず、面会を求むる書生は誰でも引見し、その才幹を認むれば直ぐにも登用した。(wikipedia)
着る服も古着しか着ることなく、贅沢とは無縁の人だったとか。
明治維新で活躍した人は自分が偉くなりたいわけではなく、
何かを成し遂げたかったり、誰かを助けたいという気持ちを強く持っていたりする人が多いように感じます。
自分の意思をしっかり持っている人が多い。
これも明治時代が多くの人から惹かれる所以の一つなのかなと思います。
汚職は徹底追及する
力をつけるとどうしても私利私欲に走る人もいます。
【山城屋事件】 関連人物:陸軍省・山県有朋(長州藩) | ||||||
陸軍省→山城屋という商人の所へ大量の使途不明金が流れた事件。 | ||||||
山城屋は長州藩の人間で山県有朋と示し合わせてそのようなことが起こった | ||||||
とも言われる。山城屋の自殺により証拠不十分になる。 | ||||||
<簡単なまとめ>国のお金が勝手に個人の元へ横流しされていた | ||||||
【尾去沢鉱山事件】 関連人物:大蔵省・井上馨(長州藩) | ||||||
岩手県にある「尾去沢鉱山」の所有者である商人が盛岡藩にお金を貸して | ||||||
いたが、大蔵省が「貸しているのではなく、借りているのだろう」と言いがかりをつけ | ||||||
商人にお金を返すように迫り、大蔵省がお金の代わりに鉱山を取り上げた。 | ||||||
取り上げた鉱山は大蔵省に親しい長州藩の商人に払い下げられ、その鉱山を | ||||||
その商人と一緒に経営しようとしていた人物が大蔵省トップの井上馨だった。 | ||||||
<簡単なまとめ>役人が罪のない個人から鉱山を奪って自分の物にした |
ほかにもいろいろと長州藩との因縁が出来てしまった江藤は
完全に長州藩を敵に回すことになってしまいます。
もちろん汚職はいけないことですし、罰せられなければなりませんが
江藤はあまりにも清廉潔白なので徹底的に追い込むわけです。
実は井上馨は江藤を司法卿ににした立役者だったのですが、
悪いことをしたことに変わりはありません。
尾去沢鉱山事件の井上馨はこの事件により政府を去ることになります。
「人民のため」が第一
当時の司法省の問題は「司法行政」と「裁判」がごちゃ混ぜになっていたこと。
※「司法行政」…どこに裁判所を置き、誰を裁判官にし、どのような罰則をするかを実行していくこと
その二つを区別していくともに「司法省誓約」というものを著し、司法省の仕事の目的を全役人に徹底させました。
そのうちの一部分です。
一、方正廉直ニシテ 職掌ヲ奉ジ 民ノ司直タルベキ事 | ||||||
一、律法ヲ遵守シ 人民ノ権利ヲ 保護スベキ事 |
一、私欲なく清らかに、民のために司法の職務を全うすること
一、法律を守り、人民の権利を保護すること
江戸時代まで日本には身分制度がありました。
士農工商 えた・ひにん
など聞いたことがある方もいるのではないでしょうか。
そのような身分制度を無くし、四民平等を掲げたのが江藤です。
左院という律法をつかさどる組織の副議長になった際
左院を通過して成立した法律には
- えた、非人という呼び名の廃止
- 華族、士族、平民の間の婚姻の自由
- 服装の自由
などがあります。
人民の権利を守るための国家づくりに尽力したのが伝わってきます。
実は日本の教育の根幹を作ったのも江藤新平
当時の文部省(現・文部科学省)には文部卿がおらず、
次官の江藤新平がわずか17日間で文部省の方針を定めました。
「すべての国民に教育を」
という方針のもと、1872年には学制が公布され、全国に小学校が作られました。
非業の最後
佐賀の乱
明治維新は国の仕組みを180度変えるほどの大改革です。
なので当然不満を抱える人も出てくるわけで、
地方の元士族たちの政府に対する鬱憤はたまりにたまっていくわけです。
明治六年の政変で佐賀に戻った江藤は征韓党の党首として担ぎ上げられます。
【明治六年の政変】 …政府内部が分裂してしまった政変。 | ||||||
これにより西郷隆盛、板垣退助、江藤新平など様々な重職の人間や | ||||||
政府に反対する役人600名程が政府を去ることになった。 |
江藤の地元・佐賀でも不平士族の鬱憤はたまっており、
それを鎮めに行くという名目で江藤は佐賀に変えることになります。
しかし想像以上の熱気に押され、後に引けぬ形で佐賀の乱が起こってしまいます。
佐賀の乱 … 江藤新平、島義勇らをリーダーとした佐賀で起こった明治政府 | ||||||
に対する不平士族による初の大規模反乱。激戦の末政府軍により鎮圧。 |
これにより江藤は捕縛され、ろくな裁判を受けることもできず、
弁明の余地もないまま梟首(さらし首)されます。
明らかに人道に反するもので、この処分に対しては当時の知識人からも批判されています。
なぜ梟首にまで至ったか
江藤新平は清廉潔白で正義感が強いがゆえに周りに敵を作ってしまうタイプだったようで。
司馬遼太郎の小説「歳月」にも、世界の情勢を見通したりする力はすごくあるのに周りからどう見られているかとかそういうことには疎かったみたいに書かれていました。
ただ正しいことをすればいいだけじゃないのが政治の難しいところですね。
改革を進める中で長州藩や大久保利通などいろいろなところで敵を作ってしまい、それが梟首にまで至ってしまっという見解が多いです。
江藤は処刑される前に
ただ皇天后土わが心知るあるのみ(私の心は天と地のみが知っている)
と大きな声で3回叫んだそうです。
とても無念な最期だったと思います。
司馬遼太郎の小説
江藤新平を中心に書かれた「歳月」
江藤の人柄が伝わってきます。
上下巻に分かれていますが、読みやすくお勧めです。
序盤は比較的テンポよく進んでいくのですが、
下巻の明治六年の政変後、江藤が佐賀に戻るのを周りの人が必死に止めようとするところから胸が苦しくて読み進めるのが辛かったです。
おわりに
凄く長くなってしまいました。
伝えたいことがたくさんあるのですが、私の文章力ではまだまだなのでちょこちょこ編集して完成に近づけます。
少しでも江藤新平のことが伝われば幸いです。
参考文献
佐賀偉人伝-07 江藤新平 星原大輔著
江藤新平 近代日本の形をデザインした人 中島優著