くるくる日本史

歴史上の色んな人物を紹介していきたいです。他には社労士受験について、QUEENについて、いろいろなことをゆるっと投稿していきます。

第3回 人生に「もう遅い」はない!人生を2度生きた男 伊能忠敬

第3回 人生に「もう遅い」はない!人生を2度生きた男 伊能忠敬

 

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日本地図を作った人で有名な伊能忠敬

この人は私が本を読んで意外性をもった人の上位に入る人です。

伊能忠敬とか日本地図作った人でしょ?ハイハイ。」

でいままで暗記程度に覚えていたんですが

この人の人生もなかなかなものだと思いました。

今回はそんな伊能のおじいちゃんです。

 

目次

 

 

かんたんな人生紹介

 

1754年(0歳)

上総国(現千葉県)に生まれる

1762年(17歳)

★伊能家に婿入りする

1781年(36歳)

★村の名主(村民の取りまとめみたいなもの)になる

1794年(49歳)

★家を長男にゆずり、隠居

1795年(50歳)

★江戸に出て、約20歳も年下の天文学者に弟子入り

1800年(55歳)

★第1回目の測量開始。蝦夷の地図を作る

1801年(56歳)~1815年(70歳)

★測量は10回ほど行い、日本全国を回って地図を作る

1818年(73歳)

★弟子たちに見守られながら逝去

1821年

★弟子たちによって「大日本沿海輿地全図」が完成

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伊能忠敬の小話

 

【どうやって正確な地図を作ったの?】

・現在の地図と比較してもそこまで誤差がない大日本沿海輿地図

その正確さのワケとして

①測量器具だけでなく、天体観測をして星の位置からも測量していたから

伊能忠敬の一歩は69cmだったといわれていて、計測の為に日本全国を同じ歩幅であるき、右足・左足で、合計138cmで歩く練習をしていたから

が挙げられます。

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★伊能の死後のペリー来航後、欧米列強は日本のことを未開の後進国と思っていたが、西洋の器具や技術を持たないのに世界基準の地図の存在することとその精度の高さに驚愕し、日本を見下すことを改めたエピソードも。

 

【そもそもなんで地図を作ろうと思ったの?】

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伊能忠敬の趣味は天体観測

むかしから宇宙に想いを馳せることが大好き。

天文学の勉強がしたいと思うものの当時は夢に生きられる時代ではなかったのです。

それから17歳から酒屋の婿養子になり、仕事に精をだし、

約10年かけて経営を立て直し、家業の拡大に成功します。

そして50歳でやっと息子に家督を譲り、自由の身になったため、

天文学を本格的に勉強するために江戸に出るわけですね!

 

 

「なぜ地図をつくろうとおもったか?」

「地球の大きさを知りたかったから」が本当の目的。

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<地球の大きさを割り出す方法を提案>

1.北極星の高さを2つの地点で観測

2.見上げる角度を比較することで緯度の差を算出

3.2点の距離を測れば外周が割り出せる

とのこと。

 

正直よく意味が分かりませんが(笑)

2つの距離は遠いほうが良く、そのために蝦夷(現北海道)に行きたいと

思うわけですが当時は許可がないと蝦夷に行けませんでした。

 

その名目として

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「正確な地図を作って日本の役に立ちたい!」

と依頼したのだった!

日本地図作りはついでのようなものだったのです。

 

導き出した地球の大きさと現在のGPSとスーパーコンピュータで計算した誤差はなんと0.1%以下という驚異の精度でした。

 

総括

 

伊能忠敬の人生は夢に向かって一直線ではなかったのです。

夢とは関係ない酒屋の仕事を精一杯やり遂げたあとの夢でした。

今回伊野忠敬を紹介するにあたって参考にした本の文を参照して今回のまとめとします。

“夢に生きるとは、やりたいことをやるだけではないのです。

夢に生きるとは、好きなことをやるだけではないのです。

夢に生きるとは、目の前のことをすべて受け入れ、

そのときにできる小さな一歩を踏み出し続けること。

夢に生きるとは大切な人たちをちゃんと大切にすること。

チャンスはいつだって、いま目の前にあるということです。”

 

引用&参考

「人生に悩んだら「日本史」に聞こう」祥伝社 ひすいこたろう,白駒妃登美

第2回 日本人ならみんな大好き!? 福澤諭吉

第2回 日本人ならみんな大好き!? 福澤諭吉

 

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「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」

みなさんも1度は聞いたことがあるのではないでしょうか。

学問のすゝめ・一万円の人(笑)などで有名な諭吉先生です。

 

【プロフィール】

名前:福澤諭吉

生誕:1835年1月10日 (現・大分県中津市

死没:1901年2月3日 66歳

慶應義塾大学の創設者・翻訳家・教育者

身長:173cm 

(当時の健康診断書による。ちなみに当時の男性の平均身長155cm台に比べてめちゃくちゃ大きい)

体重:67.5kg (〃)

 

目次 

 

 

かんたんな人生紹介

 

★1835年(0歳)

豊前中津藩(現・大分県)の下級武士として生まれる

★1849年(14歳) 私塾に通い始め

1854年(19歳) 長崎にて「蘭学」「砲術」を学ぶ

★1858年(23歳)

江戸の藩邸で「蘭学塾」を開く

1860年(25歳)

自分のオランダ語が通じるか外国人に話しかけるも全く通じず( ;ω; )

なぜなら外国人の話す言葉は英語だったからです。

これからの時代は英語だと気づき、英和辞典がなかった当時、英語をオランダ語に訳した辞書を使って英語を独学しました。

★この時代にいちはやく「英語教育の必要性」に気づきます

そして「咸臨丸」(←勝海舟も一緒)でアメリカ・ヨーロッパへ

そこで大きなカルチャーショックを受けます

1864年(29歳)

江戸幕府の「翻訳御用」になる

★1868年(33歳)

築地の蘭学塾を芝(港区)に写し、「慶應義塾」と名付ける。

戊辰戦争の時も大砲の音を聞きながら講義をしつづけたらしい)

★1872年(37歳)

「学問のすゝめ」を発行。

生まれながらにして上下の差はないのに、貧富の差や身分の差が出来るのは

「学問」のあるなしが原因で、その「学問」とは実益を伴ってこそだと説明してます。

庶民にも買いやすいように漢字に読み仮名を振るなど工夫されました。

そして当時の日本の人口3500万人に対して350万部の大ベストセラー!

★1901年(66歳)

脳出血により死亡。1984年(割と最近)に1万円札の肖像になる。

 

 

福澤諭吉の功績・エピソード

 

<①海外に出向き、その文化を日本に取り入れた>

それまで庶民には馴染みのなかった肉食や西洋の衣食住を定着。

また、和製漢語もたくさん作っており、

「自由」「演説」「社会」「経済」という漢字も諭吉先生が作ったんです。

「自由」という言葉は、他の候補に「御免」という言葉があったとか。

もし御免になっていたら「自由の女神」ならぬ「御免の女神」・・・(^ω^;)笑

 

 

<②日本銀行の設立に大きく貢献>

「保険」とはそもそもイタリアの都市国家ベネツィア共和国が始めました。

地中海貿易は危険が伴うため船とその積み荷に「保険を掛ける」という発想が生まれたのです。

それまで日本では災難があれば親族間でなんとかするで!という考え方が根強かった

そんな日本に保険を紹介したのが福澤諭吉

福澤諭吉が保険を紹介してから15年後日本初の生命保険会社が登場(今の明治安田生命

日本の生命保険加入者第一号になりました。

 

 

<③素晴らしい教育者>

有名な「学問のすゝめ」からいくつか抜粋します

★『賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによって出来るものなり』

(世の中の格差は生まれ持った才能や富ではなく学ぶか学ばないかである)

★『進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む』

(前に進まないものは必ず後退し、後退しないものは必ず前に進む)

★『学びて富み、富みては学ぶ』

(勉強してお金を稼ぎ、稼いだお金はさらなる勉強につかって富を築いていく)

 

 

<④めちゃくちゃ酒飲み>

少年の頃からお酒が大好きだった諭吉先生。

禁酒中に「ビールは酒ではない」という名言(笑)を繰り出し毎日ビールを飲む。

そんななか友人に「酒の代わりにタバコを吸え」といわれタバコも覚えてしまう。

禁酒失敗に失敗、さらに喫煙家にもなってしまうという最悪の流れに(笑)

 

<⑤当時にしてはめっちゃデカい>

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・・・ご覧いただけただろうか?

プロフィールにも書いたんですが当時にしてはすごく大きいんです。

でもスーツとか似合いそう!

 

 総括

 

ほかにもたくさんエピソードはあるのですが、今回はここまでです。

「一万円の人」とだけ認識してたらとってももったいない!!

諭吉先生の「学びて富み、富みては学ぶ」って大事ですよね。

自己投資をすることで成長して裕福になり、そのお金でさらに自己研鑽をして成長する、というループって大事なんだなって改めて感じました。

 

 

引用:

Wikipedia

http://wabisabi-nihon.com/archives/10928

第1回 『Made in Heaven』byQUEEN

第1回 QUEENMade in Heaven

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QUEENが大好きなわたしの中でも上位に入る曲

Made in Heaven

QUEEN、というよりフレディ・マーキュリーの曲という感じですかね。

そんな名曲を紐解いていきます。

 

Made in Heaven』おしながき

 

 

推しポイント

 

この曲の好きなポイントとして

①フレディの透き通る高音

(神秘的な声がこの曲にピッタリ)

②達観した歌詞

以上が挙げられます。

フレディの声が素晴らしいのはいつもなんですが、

変幻自在な声のなかでもスローテンポな曲ではかなりそれが際立ちます。

あとは歌詞!

意味のない韻をふんだだけの曲もあるけど、

この曲はほんとに歌詞が良き!

 

好きなフレーズ

 

Made in Heaven

神の思し召し

色んな訳の仕方があると思いますが、

私は『神の思し召し』という訳の仕方がすきですね

 

★I'm taking my ride with destiny Willing to play my part

 

 自分の運命に身を任せて 喜んで与えられた役割を演じよう

 

 

★Living with painful memories Loving with all my heart

痛みに満ちた思い出と共に生きたとしても 心から人を愛そう

 

自分の人生を受け入れるって実はとても難しいことだと思います。

実際にフレディは病魔に侵されつつあったのです。

病気が進行していく中で、自分は死ぬかもしれない。

それさえも受け入れ、自分の今の役割であるミュージシャン、パフォーマーとして

この世に曲を送り出す

ほんとはシャイなフレディだけど、世間から求められている

チョビ髭タンクトップの”フレディ・マーキュリー像”を演じるのです

 

 

★When stormy weather comes around It was made in heaven

嵐が吹き荒れたときだって それは神の思し召し

 

★When sunny skies break through behind the clouds

雲の切れ間から太陽がのぞくとき

 

★I wish it could last forever, yeah

僕はそれが永遠に続くようにと願うんだ

 

生きていたら辛いこと・苦しいこと(嵐)たくさんあります。

それも自分にとっては必要な試練として受け入れる。

だけど、辛いことばかりではなく楽しいことやうれしいこと(晴れ間)もある。

そんなことは永遠に続いて欲しいと思いますよね。

 

 

★I'm playing my role in history Looking to find my goal

歴史という流れのなかで僕は自分の役割を演じ 自分のゴールを探し続ける

 

なにげなく生きていても、どんな人でも人類の歴史の1ピースで

どんな人にも役割が決まっている

でもその中でも人間は自分の中で目標にすること・人生のゴールを探し続けます。

 

総括

 

ただのミュージシャンが歌ってもまぁ心に響くのですが、

エイズにかかり、もう自分の寿命を悟っているであろう

フレディが歌っているからこそ、ジーンときます。

私はどんなに泣こうが喚こうが、運命って決まっていると思います。

その運命をいかに受け入れ、冷静に物事を見極められるか。

人生に良いこと・悪いことでも予期せぬことがたくさんあります。

難しいですが、どんなことでも受け入れていきたいものです。

第1回 不撓不屈の白衣の天使 フローレンス・ナイチンゲール

\第1回 不撓不屈の白衣の天使 フローレンス・ナイチンゲール

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フローレンス・ナイチンゲール

[生誕]1820年5月12日

[死没]1910年8月13日(90歳)

[著名な実績]近代看護教育の母

[職業]看護師・統計学

Wiki参照)

 

第1回目はナイチンゲールです。

 

小学生の時読んだ本に感銘を受け、看護師になりたいと卒業文集にも書いていたのに

 

数学が壊滅的に苦手で断念した思い出・・・

 

恵まれた家庭に生まれたにも関わらず、自分の信念を貫き通した理想の女性像です。

 

【おしながき】

 

 

かんたんな人生紹介

 

*裕福なイギリス人夫婦の次女として生まれる

*小さいころは勉強が大好き!とても頭もよかった

*たびたび行っていた慈善訪問で貧しい人と触れ合うにつれ、そんな人々を助けたいと思うようになる

*家柄上、舞踏会などに行くこともあったが興味を持てずにいた。

*教養もあり、自分の考えもしっかり持っている彼女は当時の女性にしては珍しかったらしく、男性にモテていたらしい。

*裕福な暮らしをするも、やはり人を助けたい気持ちを捨てきれず、親の反対を押し切り看護の道へとすすむ

(※当時看護婦とは身分の低い女性(売春婦とか)が就くものでした。)

1854年(34歳)

看護の実務経験を積んだ彼女は時の戦時大臣よりクリミア戦争に看護婦として赴いてほしいと依頼を受ける

ここで看護婦ナイチンゲールとして衛生状況の改善などにあたり、傷病兵の死亡率を激減させるなど伝説的な活躍をする。

戦地の仮設病院は巨大な汚水溜の上に築かれ、建物も腐食。下級兵士は飲んだくれの無頼漢で彼らに清潔さや安楽さを求めるのなんてムダという考えが浸透していた。

しかしナイチンゲールは病人の大群が雪崩れ込めば24時間ぶっ続けで立ち働き、包帯をするのに8時間跪き、冬には2000人もの患者の臨終に付き添った。

★この辺が有名なナイチンゲール像かと思われます。

クリミア戦争から帰還後、現地で得たデータをもとに統計をまとめ分析。

これをもとに衛生政策や組織改革を提案し実現

*教育者としても活動を行い、後進の育成にも力を注いだ

 

グッとエピソード

クリミア戦争の時医療品の欠乏にいら立ったナイチンゲール

軍医長官に在庫を使わせるよう詰め寄るが「許可なしに開けられない」という長官に対して在庫の箱の蓋を拳骨で叩き割り「あら、開いたから持っていきますね」というエピソード

す、すごい・・・・・笑

 

ナイチンゲールが遺してくれたもの

 

・ナースコール

・部屋を広く確保、窓はベッド一つにつき一つ設置するといった病院建築の提案

などなど….

 

ナイチンゲールの名言

 

『天使とは、美しい花を振り撒く者ではなく、苦しみあえぐ者の為に戦う者のことだ』

・この言葉からもナイチンゲールの強い想いが伝わりますよね。

 

『物事を始めるチャンスを、私は逃さない。 たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、 芽を出し、根を張ることがいくらでもあるのです。 』

・チャンスの神様は前髪しかない、っていいますよね(前髪しかない=目の前を通った時につかまえないと後ろ髪はない)

 

『人間は一生に一度きりではなく、1日ごとに気持ちを改めていかなければならない』

・毎日を新鮮な気持ちで生きなければいけませんね。

 

 

ナイチンゲールから感じること

 

・「ナイチンゲールって確か看護師だったよなぁ。優しそうだなあ」と思っていましたが、本を読んでからは自分の信念が強く、なおかつ有言実行な人だったのだなと感じました。

『苦しむ人を救いたい』この気持ちの一心で人生を駆け抜けた不撓不屈の女性。

みなさんは自分の人生をかけて、貫き通したい想いはありますか?